水中歌

Once I heard the voice in the water by myself

暗闇は深ければ深いほど、眩しく

父を空港に送り届けた帰りの車で、両親の不仲についてまたポツリポツリと話していて、相手を理解しようという気持ちも愛情も無いとはっきり言われてしまい、今までの私の努力が、想いが全否定された気がしたんでしょう。

涙が止まらなくなってしまって、声を殺しながら、1時間半以上号泣していました。

帰宅して、夕飯も食べる気になれずシャワーだけ浴びて死んだように布団に転んで、気持ちの綻びに涙がこみ上げて来てしまって、頭痛がするほどその夜は泣き続けていました。

次の朝、頭痛と目の周りの重たさに鏡を見たら、お岩さんみたいな腫れ上がった見知らぬ顔がありました。


理屈じゃなくて、両親の大喧嘩に巻き込まれた10年前から、ずっとずっと悩んで来て、すっごい重要な悩みだったんだなって、思いました。

全く異質な相手を理解すること。

理解することは、理屈や気持ちだけじゃだめで、理解して、理解してもらってっていう、右も左も分からない、自分のそういう全身全霊なんです。

私にとって、家族っていうのは人生の全てで、生きてる意味でもあって、世界の縮図で、命だったんです。

その努力を、否定されたと感じたんでしょう。


何より、母が、相手を理解するということを諦めてしまっているのが、ショックだった。

母も、両親が毎日大喧嘩する家で育ったから、無理だと諦めてしまっているんでしょう。

それで、本来目の前のその人に向かうべき相手を理解することの重大さとか、相手の人格を認めて、平和を願うとかいった、誰もが通るべき重大な人生の課題を、世界平和とか広布とか抽象的な観念にすり替えて、向き合うことから逃げているんだと思います。


私は、私の本気の涙は、何事もなかったかのようにニコニコ接せられるほど安くもないし、少なくとも私にとっては真剣だったから、それを何事もなかったかのように笑かけられても、睨み返すしかできない。


痛みや、苦しみを、忘れ去られることが、なんと苦しいことか。

辛いこと苦しいことが好きな人なんていない。

それでも愛があるから、そういう辛さも見詰めていける。


愛情も相手を理解する気も無い。

じゃあ離婚するの?と聞いたら言葉を濁し、じゃあ自立するの?と聞いたら黙りこくりました。

母にも事情はあるのはわかる。

でも汚ない。

もう顔も見たくなくて、顔を合わせても睨むことしかできなくて。

何か、私の中で何かが終わってしまった感があります。


一番許せないのは、相手の痛みや哀しみを抱く覚悟もそもそも相手の痛みを理解しようともしない人間が、世の中で売れて、演歌なんか歌ってることです。

見た目と愛想と喋りだけは良いから、重宝される。

でも私は、ああいう軽薄さが何より腹が立つ。

腹が立って、涙が出てくる。



休日の、冬の寒いよく晴れた日に、江戸川の土手に腰掛けて上流の空を眺めていると、

家族や家庭、あったかい帰る場所っていうのが、私の本当に大切なもので、それの為でなければ、どれだけ空が広くても意味が無いんだって、そんなことを意識しました。