水中歌

Once I heard the voice in the water by myself

顔色を伺うのは良くない癖

職業偏差値診断をしたら、「お祭りタイプ」でした。

なかなか不名誉なレッテルで、とりあえず詳細を読んでみると、

「行動基準が、周りにどう思われるか」がこのタイプの特徴ということでした。

さしずめ上にへつらい下に横柄に、あっちでyesと言いこっちでnoと言い…

というカメレオンの感じでしょうか。

ころころ意見の変わる信用できないやつ、というか。

ただ、診断自体は素の私、限りなくオフの私なので、まぁ無理もない。

 

ここのところ、自分の家の宗教について思いを巡らせる時間が多い。

信仰は自由。

己の志を守って、高潔であればいい。

そうなんです。

そこでしかないんですよ。

 

だから、この「お祭りタイプ」が「理知性」を高める努力をしていくと、

ぐんぐん偏差値が上がってく。

三つ子の魂百まで。

刷り込まれた関係性の築き方はもはや矯正していくしかない。

もう私は、周りの目を気にして自分を殺さなくてもいい。

たまたま選んだ職場が、自己を抑えるようにと、上には服従しなさいというメッセージを与えるところだっただけで、

良心からの発言、行動だったなら、泣くことはないんだ。

ここは私の泣き所。

でも、正しいと感じたことを、表現して、叩かれても、

自分を信じなければ。

 

ありのままで、というのが、私はひどく反発心を覚えていたけれど、

結局それって、自分がありのままに成る勇気が無かったせいなんじゃ

ないだろうか?

お話では、エルサは、その後ひどく寛容な国民に受け入れてもらうことができたけれど、

本来なら、WICKEDのエルファバよろしく、悪の女王として、

一人孤高にこれからの人生を歩むべきだったんじゃないかって思う。

夢のない話だけれど、実際問題エルサは、あの氷の城で暮らしたら、食料が無いからすぐに餓死するか、使い魔を走らせて略奪でも行わなければいけない状況だ。

あれは、つまり、アナという優しい妹との間にすでに絆があって、エルサは無意識で

彼女がきっと助けてくれるはずという甘えがあったんだ。

王女様だし。

衣食住の不足を心配する環境にはなかったわけだし。

 

現実には、

「ありのままで」生きるには、

まず経済的に自立していなければならない。

(この日本で)経済的に自立するには、まず大前提として、戸籍があること、

保証人があること、そして学歴があること、さらには能力があること、

などが求められる。

何か自分の意見や思想を持ち、それを発言するということは、

そもそもそういった社会的自立性が認められて始めて効力を発揮する。

だけど、そうした「ありのままで」生きることには、

「社会に反しない範囲で」、という制約も付け加えられている。

経済的に自立する=思想についての自由な発言権を得る

経済的に自立する=社会に反しない範囲で

という構図が成り立つ時、同時に

思想についての自由な発言権を得る=社会に反しない範囲で

という構図も成り立ってしまう。

 

つまり、結局は、どこからお金(ご飯)を貰ってるか、ということが重要なポイントになっているのだ。

幸い、今の日本社会は、そんな馬鹿みたいに人道的でない制約があるということではなくて、

それなりに人権が認められていて、わりかし自由を感じることができる。

ただ働いて、ある程度は自由に生きることができるはず。

 

だから、私にとっての「ありのままで」は、あくまでも、

家族からの開放

という図式になるのだろう。

家族からの開放=S会で刷り込まれた良くない精神との決別

かな。

これは同時にやって来る。

どちらが先ということはない。

この、「一般的にどう思われるか」「周りがそれについて好意的か」で

反応を変える、顔色を伺う、というのは、本当に私の良くないクセだ。

今までは、行きずりの他人からのリフレクションが良い物だっただけに、

本当に気づくことができたのが、遅かった。

だって、私が、少し嘘をついたり、周りに合わせておけば、

相手が笑顔になっていたのだから、

悪いことだと思う由もない。

誰もそれが悪いことだと言わなかったのだから、

気づきようもない。