水中歌

Once I heard the voice in the water by myself

そうか

メモ代りだけど。


否定して来た過去も、私だったから、

自分で自分を否定してるんだ。

汚なくても、社会的に良く思われていなくても、

大切な私の一部なんだ。

真実は、評判には無い。

真実は、私が見て聞いて居合わせて体験して来たことが全てだ。


だから、私は空っぽじゃない。

空洞だと思ってた過去も、ちゃんとある。

あったかい思い出だってある。

全部が全部悲しいことじゃなかった。


なぜ今思い出すんだろう。

記憶の扉が開くのだろう。


友人のこと、深く感じた映画、高校の顧問からの誘い、

他にもいろいろ。

受け入れるべき、受け入れろと囁いている。

祝福されていたのだと囁いている。


こんなにも有り難いことが、私にはあったのだ。

捨てていたのは私だ。

全部失う前に気付けてよかった。




確かに悲しかったのは、裏切られた気がしたから。

その悲しみは深かったから、目の敵にしていた。

でも、違うんだ。

それでも私を育んでくれた揺りかご。

社会的に間違ってるとか、そういうのは大きな障害ではない。

私は確かに、そこを揺りかごに育った。全て否定するのは違う。

絶対違う。

だから、否定されてムッとしたし、悲しかった。

一緒くたに、レッテルで、感情も無く排斥できるその軽薄さが、腹が立ったし、悲しかった。


私は確かに、愛していたし、今でもきっと愛しているし、愛したい。

ただ、憎しみや争い、理解の無い押し付けや独りよがりが、いけないと思うだけ。

全て否定する必要が無い。


私はもとより、私の子ども時代を愛している。

そしてその子ども時代を育んでくれた揺りかご全てを否定したくない。

何より、笑っていた、あったかかった、美味しかった、楽しかった、記憶が詰まっているから。

カルト団体のレッテルに一掃されない、個別具体性があった。

私はその五感の記憶を信じよう。

いつか本当に、努力するまでもなく普通に人に話せるようになるまで。

別に隠す必要などないのだと。

胸を張って、幸福な子ども時代があったことを話せるようになるまで。