水中歌

Once I heard the voice in the water by myself

就職決まりました

年の瀬を前にして、お陰さまで、正社員の仕事が決まりました。
地元の小さな企業ですが、採っていただけたことが大変うれしく、恩義を感じております。
私自身の、幾つもの悲しみや絶望の涙、傷みや傷があっての今ということを思うと、長い冬に陽が差したかのような実感がいたします。
空けない夜はない。

夜の寒い闇の中で思い描いた幾つもの夢や希望が、ここまで私を支えて来てくれました。
この時の経験が、きっとこれからも役に立つ時が来るでしょう。
この先暗闇に包まれる日が来ても、思いっきり夢や希望を描いて、そこへ向かって盲目に突き進んでいけばいい。
1人賽の目のように進めとは、実にこのこと。

打ち捨てられたようなブログですが、辛い中でも更新していた場所なので、吉報報告で、締め括りです。
今迄ありがとう。
そして新たなる始まり。

過去よ
星の光が
轍の野に咲く菫に
人知れず微笑み
分かち与えんことを

近況報告

こんにちは。

読んでくださる方いらっしゃるのか謎ですが、アドレスを消す気にもならないので、ぼちぼち近況報告します。


はい、わたくし未だ家事手伝いの身です。

ただし、家事は全て1人で行っています。

…あれから色々ありました…(遠い目)

家の内外は、跡形もない程に綺麗に片付きまして、カビだらけの場所も、出来る範囲で掃除をし、真夏でも居間がカビ臭くなくなった!

脱衣所の天井は、ラスボスですが、今日か明日で、塗り替えてしまいます。

これまで必死に手を尽くして来ましたが、結局のところ、壁に染み付いてしまった菌床は下地から剥がさなければいけないようなので、根本解決は諦めざるを得ませんでした。

出来る限りホコリを取り、壁を削り、乾燥させ、カビ止めスプレーを施しました。

それで、ようやっと塗り替えられます。

塗料を選ぶにあたっては、ホームセンターの事務のお局さん?かな、に低姿勢で教えて頂き、一番適当な塗料を購入しました。

塗り方までご指導いただけるなんて、ありがたい話です。


関係がこじれていた両親とも、腹を割って話をし、私の苦労して来たことや良くない影響などについて、理解して貰いました。

親を泣かせてしまったのは、親不孝だったかもしれませんが、私にとってはいわゆる毒親だったので、おあいこです。


家の環境が正常化して来て、それに連動して、私の情緒もクリアに成って来たみたいです。

自分の人生や、よろこび、性質や、キャリアなどについても、客観的に、分析することができました。

ずっと避けていた数学の問題も、初めは泣きながら向き合って、今では苦手意識は少なくなりました。


自分が選ぶ職種も、決まりそうです。

やりがいより給料。

そして現実的なスキルを極めて行きたい。

今回の件で、根っからの現実主義者になったかもしれません。

親も兄妹も親族も頼りにならない、信じて任せてはいけないことを通過したため、かもしれません。


今なら、社会でもう一度がんばれる気がする。

今度は、石に齧りついても辞めたりしない。

礼儀だって、障りを受けないように勉強したし、敬意を払うことも覚えたし、得るためには捨てなきゃいけないことも覚えたし、随分年相応の振る舞いが出来るようになったと思います。


あとは、見た目を綺麗に整えて、挑戦あるのみ、かな。

見た目って大事ですよね。

自分で気に入らないとテンション上がらないし、いい感じに決まると、それだけでいけそうな気が、前向きになれるというか。




すっかり書くことが

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すっかり書くことが無くなって放置しておりました。


まだ仕事は決まっておりませんが、身辺整理や、復習や、SPIをやったり、勉強したり、家の内外を大掃除してクリーンアップしたり、なんやかんやといろいろしておりました。


前回記事が大宮氷川神社参拝についてでした。

長いようで短かった…。

もう3ヶ月経つのか…。

いろんなことが起こりました。

心境も少しずつ変化して来ました。

やはり、きっかけは神社への参拝だったのかなという気がします。

震災に見舞われた方々からすれば、それでも贅沢な悩みかもしれませんが、辛い出来事の中で、本来あるべき道の上に戻れた様な気がしています。


今まで、見えなかった自分自身のことが、今は少しだけよく見えています。

怒りや、惨めさを、人にぶつけてしまうことを何とも思わなかった私ではもうありません。

自分の心と向き合うことを覚えています。

人としての、在り方を学んでいます。


それには、やはり、自分で自発的に神様に心を向けていることが大きいのだと思います。

神社神道は、私に合っているということだと思います。

長い参道を独りで歩き、神様の前に立つ前には手と口を清め、いざ前に立てば無心に感謝の作法を行う。

この行動の積み重ねが、普段の私の生活の中で、自分自身を見つめることに向かっている気がします。

辛い感情も、それで避けて来たことも、向き合う強さが出てきました。

神社も、今は人が居ても気にせず参拝できるまでになりました。


こうして見ると、当初のこのブログ設立時の夢のひとつは叶ったことになるのでしょうか。


このまま、就職を決めたいですね^^


読んで頂いてありがとうございました。



大宮氷川神社初参拝

f:id:inawaterme:20150215215046j:plain大宮で、奈良から一時帰郷している友だちと会って、

友だちも同行で、氷川神社に参拝しました。


二回目なので、手水舎の柄杓を持つ順番を忘れてしまい、一瞬戸惑いながらも、ちゃんとこなせました。


櫻木神社の時は拝殿の前は人もまばらで、自分のタイミングで参拝できましたが、

氷川神社では10人ちょっとの列になっていまして驚きました。


神社って、こういうものなんだなぁ〜


いいなぁ〜


皆視えない存在に向かって礼をしている。

大きな大きな樹木の下で、とてもとても静かなものでした。


この静けさと、視えないものへ向かって(深く)お辞儀をしている雰囲気が、とても好きです。

初めての参拝

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勇気を出して、宮司さんや巫女さんが駐在している大きな神社に、参拝して来ました。

櫻木神社です。

参拝して、初めて、大部分の日本人の世界観が、実感できた感じがしました。

厠にも、周辺道路にも、心正しいという感じの看板や立て札があって、小中学校以来な、素直な気分になれました。

"心身の清浄"とか、"心正して"とか、そういったメッセージが、さも当然という顔をして其処彼処に見受けられるのが、新鮮でした。


こういう世界観で、多くの日本人は、暮らして来たんだなぁ…(*´_ゝ`)しみじみ


うちの家が、やっぱり異常だったんだな。


手水舎で水汲んでお清めするのも初めてでした。

かわいい亀さんが水を吐いていてすごく和みました。

神社ほんと和みました。

参道は大きな大きな木々の中を、風がさわさわざわざわ通り抜ける中を、あんなに穏やかな気持ちで歩けるのは本当に良いですね。

もし私に、深い宗教的なしがらみがなかったなら、ジブリはトトロが一番好きなんじゃないかと思いました。

あんなに素晴らしい場所があったなんて、知ることができて本当に良かったです。


また行くと思います。


暗闇は深ければ深いほど、眩しく

父を空港に送り届けた帰りの車で、両親の不仲についてまたポツリポツリと話していて、相手を理解しようという気持ちも愛情も無いとはっきり言われてしまい、今までの私の努力が、想いが全否定された気がしたんでしょう。

涙が止まらなくなってしまって、声を殺しながら、1時間半以上号泣していました。

帰宅して、夕飯も食べる気になれずシャワーだけ浴びて死んだように布団に転んで、気持ちの綻びに涙がこみ上げて来てしまって、頭痛がするほどその夜は泣き続けていました。

次の朝、頭痛と目の周りの重たさに鏡を見たら、お岩さんみたいな腫れ上がった見知らぬ顔がありました。


理屈じゃなくて、両親の大喧嘩に巻き込まれた10年前から、ずっとずっと悩んで来て、すっごい重要な悩みだったんだなって、思いました。

全く異質な相手を理解すること。

理解することは、理屈や気持ちだけじゃだめで、理解して、理解してもらってっていう、右も左も分からない、自分のそういう全身全霊なんです。

私にとって、家族っていうのは人生の全てで、生きてる意味でもあって、世界の縮図で、命だったんです。

その努力を、否定されたと感じたんでしょう。


何より、母が、相手を理解するということを諦めてしまっているのが、ショックだった。

母も、両親が毎日大喧嘩する家で育ったから、無理だと諦めてしまっているんでしょう。

それで、本来目の前のその人に向かうべき相手を理解することの重大さとか、相手の人格を認めて、平和を願うとかいった、誰もが通るべき重大な人生の課題を、世界平和とか広布とか抽象的な観念にすり替えて、向き合うことから逃げているんだと思います。


私は、私の本気の涙は、何事もなかったかのようにニコニコ接せられるほど安くもないし、少なくとも私にとっては真剣だったから、それを何事もなかったかのように笑かけられても、睨み返すしかできない。


痛みや、苦しみを、忘れ去られることが、なんと苦しいことか。

辛いこと苦しいことが好きな人なんていない。

それでも愛があるから、そういう辛さも見詰めていける。


愛情も相手を理解する気も無い。

じゃあ離婚するの?と聞いたら言葉を濁し、じゃあ自立するの?と聞いたら黙りこくりました。

母にも事情はあるのはわかる。

でも汚ない。

もう顔も見たくなくて、顔を合わせても睨むことしかできなくて。

何か、私の中で何かが終わってしまった感があります。


一番許せないのは、相手の痛みや哀しみを抱く覚悟もそもそも相手の痛みを理解しようともしない人間が、世の中で売れて、演歌なんか歌ってることです。

見た目と愛想と喋りだけは良いから、重宝される。

でも私は、ああいう軽薄さが何より腹が立つ。

腹が立って、涙が出てくる。



休日の、冬の寒いよく晴れた日に、江戸川の土手に腰掛けて上流の空を眺めていると、

家族や家庭、あったかい帰る場所っていうのが、私の本当に大切なもので、それの為でなければ、どれだけ空が広くても意味が無いんだって、そんなことを意識しました。



明けまして御目出度うございます

2015年、始まりました。


年末29日に父を成田へ迎えに行きまして、今月10日に今度は送りに行きます。


こちらへ来て、おそらく初めての家族会議を催し、いろいろショッキングな思いもしましたが、大丈夫です。

泣かぬよ!


元旦は調整の為に昼前まで寝過ごしましたが、今朝は、昨夜思い立って早起きをし、日の出の時刻に起きて、そそくさと支度をし、一番近所の神社へお参りに行きました。

ほとんど悩むことなく足が向いたのは、「ついたち参り」の習慣の成せたわざだったのではないかと、今に成って思います。


家族3人は、元旦に学会の本館の方で唱題をして来た模様で、正直なところかなり寂しい思いをしていたので、まさか自分が初詣を神社で実現するとは…あまりにも自然な行動だったので逆に不思議なくらいでした。


帰りの参道で、感極まって涙が出てしまいました。


終わってみると、

さして大した事でもないように思えるのも不思議です。

人ひとりの悩み事なんて、些細なことなんですね。

でも本人にはとっても重大な出来事なんです。


普段お参りに行く時は、空(くう)に向かっている感じがしたんですが、

今日立った感じは、なんか、雄々しいというか猛々しいというか、大きな感じというか、質量ある気配みたいなものを確かに感じた気がします。

視られているというか、とにかくしっかり頭を下げて、心を真っ直ぐに置かないと持って行かれそうな、感じが、して。








とにかく、きっと、初詣の時節だから、神様がご多忙な中寄って頂けたのだと思うようにします。

早朝でまだ静かな町の中を初詣参拝が行えて、本当に有難い機会でした。

祀られている御祭神様が、清々しいの由来の御柱様ですので、あの様な厳粛な空気を感じたような気がしたのかもしれません。

初めての初詣、入り方がいまいち身に入っておらず、1の鳥居の垂れ縄飾り?に頭を擦ってしまったのが悔やまれます。

来年は礼儀を尽くした、神様に見苦しくない参拝をしたいなと思いました。

あれは、お辞儀をして頭を低くする為にわざわざあの様な形なんですね。

神道の行儀ってすごい。

まじすごい。

感動しました。




感動しました。

単に信仰の問題かもしれませんが、

神様の気配は御わする(?)と、確信せざるを得ないような、ありがたい機会でした。本当です。


これが畏怖。